2011年04月10日

昨日のウイングスタジアムでのレポートー

宮城・女川から神戸入りー被災された親子にタスキバッグを手渡しー
 4月9日(土)、前日からの雨が止み、晴れ間がのぞいた暖かい午後、宮城ナンバーの車がタスキ・センターに到着しました。壊滅的な被害を受けた宮城県女川町から神戸に避難してきたSさん(71)、Yさん(36)の親子。7日に神戸入りし、現在、神戸市北区鈴蘭台の市営住宅で新しい生活を始めようとしています。着の身着のまま逃げてたどり着いた神戸。同じ市営住宅に住む方々が「新しい生活に必要な物を」とタスキセンターを紹介し、支援物資を受け取りに訪れて下さいました。

 「何もかも失いました。」と顔を覆ったS子さん。マスクのゴムを再利用したヘアバンドで髪をたばね、神戸に着いた日はマフラーをスカート代わりに腰に巻いておられたそうです。センターに集まったスタッフやボランティアの拍手の歓迎に何度も頭を下げ、「ありがとうございます、こんなにたくさんの物資を東北のために・・・」と山のように詰まれたタスキバッグを見上げておられました。年齢とサイズに見合ったタスキバッグをスタッフと共に選び、車に積み込みました。

 娘のYさんは、「本当は(女川に)住みたかった。挨拶もしないで別れた友達がたくさんいるから、後ろめたい気持ちで・・・」と涙声で語りました。

 地震の日、「津波が来るかもしれないから念のため」と、ジャケットと財布が入ったバッグだけをつかみ、安易な気持ちで海抜30m地点の運動公園まで車で避難しました。寒い日だったので車で待機していると、集まった人たちがワーワーと叫び出しました。あわてて車から降りて住宅街を見下ろすと、いつもはないはずの海が山の中腹にまで迫っていました。いったん水が引きましたが、立て続けに二波、三波と押し寄せ、船や、折れ曲がった電車、車が住宅地があった場所に流されてきました。電車が走っていたトンネルには水と住宅の残骸、ガレキがあふれていました。「真っ黒な海だった」とYさん。その光景を忘れないでおこうと思いました。デジカメで写真を撮りながらも、「なんでこんな時に写真を撮れるのか」と自問しましたが、「この日を、この光景を一生忘れないで生きていこう」とシャッターを押しました。

 地震から数日間は、味噌汁のみで過ごしました。でも、2日後に支援物資の一番として兵庫県から毛布が届いた時、「本当に嬉しかった」と言います。仕事で神戸を知るお兄さんに勧められて避難を決めましたが、着いた日は一日涙が出ました。違う言葉、文化、風景にとまどい、ホームシックになりました。でも、同じ市営住宅に住む方々から温かく迎えられ、生活に必要な衣類や食器、炊飯器、家具、食事まで差し入れてもらい、「神戸の皆さんは本当に温かい。気持ちをわかってもらえて嬉しかった」と言います。

 Yさんは、女川町にいる92歳の祖母のこと、挨拶もできずに別れた友達、知り合いのことを心配する一方、「あちらで辛い日々を頑張っている親友が神戸に着いた私に“おつかれさん!”とメールをくれた。私も頑張らなきゃ」と言います。今の希望は、「ボランティアをして人の役に立ちたい」。避難所で、配給と仮設住宅ができるのを待っているわけにはいかないと思ったYさん。いつか、タスキのトラックに乗って東北に帰り、誰かの心の支えになりたいと夢を膨らませています。文責:たすきみおー




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posted by HANDS at 07:53| Comment(2) | TrackBack(0) | たすきプロジェクト